日本で初めて紅茶を飲んだのはだ~れ?

「茶」は7世紀に遣唐使によって持ち帰られたのが知られていて、古くから喫茶の風習があったようです。

「紅茶」の登場は江戸時代になってからになります。どんな経緯で誰が持ち込んだのでしょう?

時の将軍様? それとも天皇? 

違うんです。それは「大黒屋光太夫」という伊勢の船頭なんです。

どうして? と思いますよね。遣唐使のように紅茶の国に留学してたの?

実は1782年(天明2年)光太夫31歳の時、伊勢の白子港から江戸に向かった輸送船が駿河湾沖で暴風雨にあい、ロシアとアラスカの間にある島に漂着し、先住民族やロシアの狩猟団に助けられ4年間過ごしロシアへと渡ったのが紅茶へと続くんです。

難破船のイラスト

その時の船積みの荷物が雛人形や錦の衣装、陶器や金銀の豪華なものであり、ロシアでは船長や航海士は上流階級であったことから、身分ある富裕商人と誤解された光太夫は賓客として扱われることになり、やがて時の皇帝エテカリーナⅡ世に謁見するまでになったんです。

当時の日本は金銀が豊富な裕福な国だとされていて、ロシアにとっても魅力的であり、光太夫はエテカリーナに何度も宮中に招かれ、皇太子の誕生会などの晩餐会に出席しており、紅茶に出会ったようです。

ノイシュヴァンシュタイン城のイラスト

そんな中でロシア側は光太夫を日本語学校の教師にと望んでいましたが、光太夫は振り切って帰国願いを繰り返し、数年後についに許可が下りたのです。出帆時17名だったのが3名にまで減っていました。

帰国の際の餞別品の中に、金のメダルや金時計と共に砂糖や茶があったことからも光太夫が上流階級の人々との交流の中で茶をふるまわれたことは間違いないようです。 帰国後の回顧談『北槎聞略』には花柄の描かれたティーカップ&ソーサー、ポットのような茶器の絵図が描かれています。

光太夫の帰国は日本との国交を望むロシアにとっても意味のあることでしたが、当時の日本は鎖国体制であり海外からの入港を制限しており国交はなりませんでした。日本の紅茶史に大きな影響を与えたのは、光太夫の帰国から61年後の黒船来航により日米和親条約の締結によります。初代駐日領事となったハリスが持参した幕府への献上品の中に紅茶があったという記録があり、幕府側が催した茶会にハリスが招待されていたということもわかっています。こうして日本の飲料の歴史が開けてきたのですね。

黒船のイラスト

そして、11月1日が「紅茶の日」となったのは光太夫がエテカリーナに謁見した際に、正式なパーティーに招かれた最初の日本人であったのではないか、という伝承に由来して設けられた記念日のようです。1983年(昭和58年)に日本紅茶協会が策定しました。

戦国時代の千利休のような紅茶の茶人と言われる人がいたら、日本茶やコーヒーと同様にもっと広く飲まれていたかもしれないですね。最近では日本の紅茶も広まってきていますが、本場の海外での紅茶も簡単に飲まれるようになってます。特に本場のスリランカの紅茶をお手軽に楽しんでいただけるようにとカフェをオープンしますので、ぜひとも味わってみて下さいね。茶葉の販売もありますので、ホームページ見て下さいね。お待ちしています。

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